2011年11月7日月曜日

久々の気分に

暑い夏に別れが告げられないTOKYO、直ぐに12月。
そんな11月。
秋なのに、動けばまだ汗ばむ。
温暖化も?進んでいる?。京都議定書に盛り込まれた気候変動の警鐘、
つまり地球温暖化防止のための枠組み条約の意味が経済的効果の優劣から国々の開発途上の現実が優先された。あれから議定書の掲げる本質がいつしか白紙状態の様になる。1997年から歳月がいつしか
世界は経済からの影響にまるで政治の持つ時間に待ちきれない如く、力のバランスは微妙に経済に変身、そして政治以上にその価値も実態も人々の前に登場する事になってきた。
政治は「判断する意識」を、「集団する判断」を、
また権限する判断を、それを経済の前で放棄する実態が影が視覚から消え透明な存在に移行した?
政治は経済から派生される状況を読む。
経済、それはいつしかあらゆるカテゴリー、実態に、接近、我々地上の一人一人、貴方にも、接近そして接触する。
「経済」、それは無意識なる意味を一つの「共通」の意味、価値に、変換する翻訳機械。
我々の目の前、それは言葉をかえて、「視覚の世界」は「視覚する世界」。
我々は粒子を圧縮する翻訳機械「経済」に明日を委ねる。
「視覚する世界」それは、今までの意識、習慣的価値すら無効にする。
習慣的価値を、認識的価値を、「視覚する世界」はそれまで価値観を無効な不可思議な記憶にすり替える。いつしか、無意識なる領域に我々を誘う。
「視覚する世界」新な経済が経験する初めての世界。「視覚する世界」そこは無限に拡張する意識が触れたことがない世界。
今動き出した「経済」は計画された未来それは無意識なる欲望する世界を指す。「経済」は未来を、「未来」は消費を指す事に。
計画された「欲望する未来」我々の欲望は編集された未来と言える。

「歴史する過去」は、政治の構造とその力、集団する力に並走して刻まれ語り継ぐ事に力を費やしてきた。「視覚する世界」からは
歴史は、政治は、その意味を失い「未来の欲望」に重なる。
経済、「編集された未来」そこでは、語り継がれた、我々の過去、それを信じ込む価値、また一人一人の存在する意味、想像させてきた知性。
そこでは言語さえ無効にする。「計画させる経済」、「編集された未来」、その前では過去は圧縮された記憶の粒子になる。過去は塵の様に宙をさ迷う。
見つめる「未来する世界」そこでは、時間の軸はその方向性を失う。
我々の世界を支えてきた構造すら無意味にする。
何処からとも鳴り響く私自身の身体の鼓動。

歴史と政治、二つは昨日迄続いていた蜜月からの関係を切り離され、二つは宙吊りにされる。
「歴史」は編集されて来たた意味を、それまで我々を熱く魅了してきた目的性を失い「政治」の集団的役割は無効に、「時間する構造」や現実を、それはいや「未来する現実」を見失った集団的集合体と化す。
意識は漂白を「開始」、歴史は政治との関係を絶たれ我々を無意識なる粒子空間拡張する空間に視覚する。経済は我々一人一人の未来を計画する「翻訳機械」。見つめる我々は「翻訳機械」の前では記憶することは目の前の「時間する立体性」を直感すること以外は許されなく、それは粒子の拡張する運動に「網膜する」。現実を突き付け我々は目を逸らす事ができなくなる。編集された惑星から経済は我々の鼓動する身体運動にのみ重なるってくる。

「厚み」する世界は
「薄さ」する世界。

「時間」する世界は
「漂白」する世界。

そこでは、「私」「貴方」は共鳴する世界を「視覚する世界」の内に見る事になりいつしか世界は「視覚から聴覚を覗く」。

世界は、我々一人一人の惑星。その認識する惑星の内に見いだした「私」。
私は「世界」。
私は「時間する世界」を進め歴史に記録する「意識」を選んで私が立つ「視覚する惑星」を発見する。

地球は私を発見させる「時間する意識」。
この「意識させる惑星」は我々に「視覚する世界」を開放する。
地球は編集された惑星から無意識なる「もの」になる。視覚する惑星「意識する惑星」に「貴方」と「私」は知覚する。
編集された意識、地球は、歴史と言う名の構造を失い時間する運動に戻る。
それは、「意識する惑星」でそれは、「もの」に代わるとも言える。
神その絶対的誘いに我々は従いその誘いを受け入れてきた。
受け入れる。
想像する。
彼の造った惑星に身を寄せ、彼の言葉の伝承に縋り付き伝承された記憶に、記録された歴史に永遠な約束する時間を重ねてきた。
長く、永い。永遠な約束、それは、
視覚を棄ててきた我々の自我の放棄とも言える。
永遠な記憶は、聴覚、言葉に、我々は言葉の惑星に閉ざされていた。また、編集された「視覚」。
「視覚する世界」に「視覚する惑星」を覗く時、
我々の前に拡がる「時間する世界」は欲望する惑星となる。
「経済」することは我々の鼓動する運動。
視覚する運動は編集された惑星を欲望する現実に圧縮その価値を翻訳する。。
惑星は「もの」に変換され自然は方向を見失う。
軸を失った時間に開放される。欲望する運動、我々の欲望は時間する運動、膨張する運動を開始し始める。
惑星は運動する構造。
我々は膨張する欲望。
「もの」の中に粒子の内に欲望する私が視覚を欲望する。

経済、「もの」以上に経済する私達が「視覚する世界」に経済の絶対的価値を欲望する。「もの」が粒子になる「彼方」まで。
それは、私が運動する欲望だから。私は鼓動する。鼓動は拡張する粒子に響く。「「もの」に立つ鼓動。
経済は私の内にある鼓動する運動。

2010年5月9日日曜日

繰り返されている営みは惑星の誕生以前から在り続けること、その不在からの私達の「営み」

-----Original Message-----
From: tando-1950-tsht-0929@docomo.ne.jp [mailto:tando-1950-tsht-0929@docomo.
ne.jp]
Sent: Sunday, May 09, 2010 2:34 AM
To: okura@apricot.ocn.ne.jp
Subject: 繰り返されている営みは惑星の誕生以前から在り続けることその不在から
の私達の「営み」

繰り広げられるあらゆる「営み」、それは太古の昔から何か我々の想像する時間を遥
かに超越して我々の無意識下の中に記憶となって刻印されている。
その「営み」は、我々の体内より、この無意識下の中で静かに眠ったままの胎児の裸
形ともいえる。
我々が繰り返す「生」に向かう無意識下の「営み」それは深い氷土の奥深い氷の中に
閉じ込められた植物の種、あるいは翼と四足の、手足と不思議なくちばしを持つ小さ
な爬虫類の様な太古の地上にいた生きた化石の様に。
「営み」はこの惑星の誕生以前から在りつづけた。存在の本質、遥か彼方に、「営
み」つながる時間の意味。その「営み」に含まれることは存在することそのものの不
在。「そのこと」は波動の繰り返しそれは時間の中から我々に伝えられた存在する
「そのもの」。
身体から派生する鼓動その音は我々の存在を意識させ鼓動は惑星の鼓動、誕生以前の
波動につながる。
我々は意識すること以上に無意識下の「営み」の想像に甘える。
そんな想像の予定不可能、それは世界の「営み」「そのもの」。
そのこと、すなわち「営む」理由は想像の予定不可能性に、いつしか我々はどこか
「営む」ことそのことに意味を重ねず他の理由付けをそれに重ねることで目の前の出
来事を「営む」理由付けにしてしまった。いつしか一日の鼓動の本質すら避けてし
まって。
以前から惑星はそのことの意味のため「営み」続けてきた。そのことそれ自体が存在
となる事を「営む」我々に想像としてあらゆる機会ある毎知ら示しめしてきた。この
惑星の営み、その存在は自身の身体の鼓動を通して。
「営み」そのことが予定不可能な想像の時間ともいえる。
「営み」は惑星の延長に、無意識下、想像する自身を重ねる。その鼓動の響き、繰り
返し。「営み」は時間に接近する。その想像される存在に繋げようとしている不在の
もがき。それは自身に向かう営み。しかし、多分に「営み」その事は予定不可能な延
長の時間となり我々が思い画く「営み」は惑星と我々が存在することそのものとそれ
はもはや合致することはのぞめない。今も何故我々は自身の中、各々太古からの時間
を「営む」行為に現在も見つめ続けているのか。
今我々が問い直してみなくてはならない事、それは長い不在の世界に「営み」を通し
触れ続けたことがこれからも変わることがない事なのかと。

不在に、「営み」はつながる。

2009年2月3日火曜日

上智大学ー哲学のまなざし「人間はいかに語られてきたか、そしていかに語られうるのか」、この副題について

例えば、私が何かについて考える。また、私が何かについて悩む。このことは、私の中においては、初めての出来事として、それを受け入れることになる。その、私が迎え入れる出来事は、時間を越えた中で、私が予測もできなかった事として、その時の私は、その出来事と向かい合っていることになる。その中で、その出来事をどのように受け入れそれをどの様に解釈し、私自身の中に納得させ受け入れていくのか、私は、初めて考えていることを経験する。そして、それが初めてだということを疑うことすら私はなかった。過去において、記憶の中に私が経験してきた事は、誰にもわからない出来事としての私の内に秘めた事の様に思い、消えてしまった出来事の記憶の1ページとしてしか考えられなかった。
しかし、私が誰もわからないと思っている、悩みや考える何かについては、私の出来事ではなく、はるか以前にすでに誰かがその出来事に触れていた事になぜか気づくことになった。
私の中では、何かについて考える事は、もうすでに言葉でその何かを眺めている事になる。視覚的な何かについての問題は、目の前の出来事とは別のものとなり、その出来事は、言葉という共通の音や、記号へと再構築されている。そのように初めての経験は言葉に配置換えされ、自身の感覚へと促され、その出来事を受け入れたり拒絶したり、また直接ではないが間接的にその出来事を目撃したり。ここで言えることは、心の記憶として誰に知られることもない私の出来事は、私を悩ませたり落ち込ませたり、または高揚させたり、この事も答えははるか以前に誰かに触れられていた事になる。
これまで目を通してきた多くの書物の中に語られている向こうにある言葉に触れること、それは書物や人物、時間や時代を越えて、肉声ではないが言語として、また、その著者に出会った時には言葉として、その中から多くの人々は、「出会う」そして「著者に触れる」という想像を出来事として、経験として受け入れた中から、自身の時間に持ち込み、再度翻訳している自分を見ていることになる。
私が受け入れなければならない出来事の現実は、長い歴史の中で触れ、想像されてきた出来事と見ることができる。そしてそのことは、これからも誰かが同じように経験し、その出来事に出会うことになる。
哲学という世界は、私にはまだまだ未知なる分野だが、経験という枠から見た時に、時間を越えて共有する思考、そしてそこから生まれてくる出来事は、「生きている」という前提の下に、言葉という一つの思考、そして言語という道具を通した「生」の追求に他ならない、「生」から見た時間という世界を想像させてくれる。
私達はそして人々は共同体としてつながっている強さを認識させてくれることに他ならないと思うのだが。
                                        往 蔵  稲 史 仁

視覚化する透き通る身体

「それ」は自然発生的にして意図的に必要以上にシンプル、過剰なまでに透き通る、「それ」は想像されることを想定して造り手の心表情を覗き観るそして造り手の予想に語り寄る。
「それ」は観る見られる意識をなぜか知覚する。我々の感情に心の襞に接近そして触れる。身体にこだわり「それ」は我々一人々になぜか他者の存在を意識させ我々の周りを廻る。加速度的に視覚化する世界、人々の大半は結果に接近する。
予想されたアベレージ、共通するバリエーション、その内部に留まり予測に応え着地する。
人々の前に出現する「それ」。
他者を自身の身体に接続する、自身は見つめる他者の目に移行し観る中、深く自分を客観視する。
「枠、フレーム」透き通る身体、安らぐ瞬間、視覚化する身体は表層の膚に意味を見出だす。私はいつか見つめる他者を私の傍に置く、そして繋ぐ、結ぶ、縛る、接続を。
世界は構築に向け視覚を味覚化する。
不透明な身体を脱ぎ棄て視覚化する身体の変容をそこで観る。
時代を発見する私、時代を開始する私、観ることは他者を覗くこと、我々の身体の視覚化は聴覚、嗅覚に及ぶ。視覚化する味覚、味覚化する視覚。
「それ」は観てから「感じる」「予想」と「予測」の中に組込まれ「観られる」ことを意識する。「それ」を眺める。受け入れるものは「枠、フレーム」からはみ出すことはない。
演じる私、私が見つめる向こう側にいる。「それ」が我々を試す、そして我々に語りかける。
「もの」と新な関係を想像する「それ」。
見つめる私、演じ出す私、見つめる他者の向こう側に演じ観る私が自身を見ていることになる。
出来事、我々は距離に関係なく同時に目撃する事になる。記憶の枠に、見えない世界観、ここでも「枠、フレーム」に縛られるが全て同時に目撃体感する。出来事の目撃と体感、潜む新な開かれた思考ゲーム、出来事はライブゲーム透明な視覚ゲーム、オープンな思考がライブとなる。
 閉じない我々、他者を見つめる私、見つめられる私がいる接続する身体に眠れない我々の知覚、全て公開ライブ、透明さを帯び、我々を取り囲む環境が我々から切り離される、現象のバーチャルが浮上する。
閉じない、眠らない、全てが露呈される誰一人それについて語らない。目の前に出現しているカタチが醸し出す時代の空気感「それ」は閉じることが出来ない我々の姿。
スイッチを、切断できない、落とせない、我々を目撃する。

2008年10月21日火曜日

交換劇に都市は装いを変える。

「交換」、我々をとりまく都市や街における環境はこの交換する行為を機軸に構成されている。「交換」される我々の周辺や街は日々その目的のために変化する、この変化は休むことなく続けられる。街の中で見る変化は我々の誰かと交換劇が開始されたことになる。都市空間は新たな交換相手に向け交換劇を選び昨日迄のあらゆる質を再編し直す、交換相手をあぶり出し目的を描き出し街を行き交う想像の交換相手を創りだす。光り輝く予想された夜景と行き交う想像をかきたてる笑顔、迷いの無い視線の輝きを得た人々の姿、空間性は街と都市全体を高らかに歌い上げ、今より遥か未来の先に誘うことを約束した浮遊する像を歌う。交換劇に、たどり着くストーリーはここでは理想化の中の理想を選び出し画く、交換像はそこに曖昧な存在としたものにしかならないが、我々はそれに気付かない。交換目的に選ばれるジェネレーション、彼らは空間に横たわり微笑む描き出される交換像に重なる、都市空間の静止した時間と理想化された場所の欲望、その場所に魅了されたように描かれるジェネ
レーション、人々の交換像と交換劇、微笑む描かれた人々、変化する都市像にだジェネレーションを交換する相手に都市は選択してしまったことになる。昨日迄の繋がりやしがらみは忘れ物に、地理的、場所的、そんな背景から過去は削り取り交換目的があらゆる意味や歴史的時間も均一化することを選ぶ。理想化の目的に都市は目的をジェネレーションに重ねた未来の交換劇は理想像に描ききれない。ジェネレーションに重ねる描き出された交換する都市は神話を棄てる、消す、記憶喪失の都市空間に交換劇がジェネレーションにことばの中で交換される。交換される街と「ことば」、私達は「ことば」の中で都市空間を観る、そこでは全て「ことば」で交換される私自身の姿に出会う私を覗く。

2008年9月16日火曜日

普段何気なく通り過ぎる地下鉄のコンコース、特に表参道駅の乗り換口の変化は、地上の新たに開店した世界的ブランドショップ等と大きく関わり、それらの影響をたのかそれまでの環境を著しく変えた。

その対応と変化は長く放置されてきたそれまでの過程の中でその放置の限界を超える事を感じさせそこに不思議な時代性を伺わせる事を感させる。
時代性を伺わさせる。
見直しを余儀なくされるそんな印象を持つ。
それは媒体を通した環境の見直しに似る、表参道の地下改札口に至る迄の街の外的変化、そして現実や状況の見直し。
そんな決意の向こうに立ち現れ迷わせるのは放置されたそれまでと同じ現象に過ぎない。
目の前に立ち現れた空間は時間、季節、ジェネレーションそして分かり易い欲望の意味。

さて表参道駅は新宿駅東京駅、丸の内銀座等と異なり狭い床面積にも関わらずその著しい変化は目を見張るものがある。
我々に投かけるこうして場所や環境は場所性の新たな在り方へ移行した。
地下の乗り換え口は個人的チューブの第二、第三の新たなプライベートシティにそれは都市空間の時間軸トラフィックのタイムラグという今までの習慣性を棄てた別々のタイムラグの中から派生する皮膚の柔らかい閉じたトラフィックチューブになる。
ラビリンス。
地上の変化、現象は意味を変えリフレクション効果と意味の関係に時間と人々とを相対的に包む事を強め都市は新しい見えないチューブラビリンの空間になった事を感じさせる。
表参道駅の乗り換え口は地上の変化に媒体として対応し、新たな空間に姿を変え都市の空間に流動性をおび環境全体が媒体に溶けだす現実を私達に伝える。
トラフィックチューブラビリン都市空間は建築要素の実態をさらけ出し我々の内部に媒体の意味になり溶けだす。
建築は媒体に消える。

2008年9月13日土曜日

軽い快感の眩暈

 

都市の中で不思議な新しさを感じさせつつあるのは地下でつながり始めた街の中、見えない構造で地上とのあらゆる建築物と地中深く接続して場所の意味すら徐々に変えさせるそうした場所に何か新しい刺激があるうに思える。
都市の地上と地下は複雑に絡み合い無数に接続し私達の身の回り環境は都市内部深く潜む見えない所から静かに姿や実態を変える。
街の環境は建物や歩道、車道等アクセスするトラフィックライン等で構成される。それと公、私入り乱れる建築等、複雑な街の関係で結ばれいる。
不安定なバランスで保たれる。
また街は時代と共に移り変わり息使いを潜める生きものようになる。
時代を歩み続け都市の変化は我々の意識に複雑な影響を与えてきたことになる「時間」そして「歳月」都市も私達も時間に溶け流れだした。
アメーバのように都市の中に隠れる。
都市空間の推移、車の「意味」「要素」は多くの現象を生んだ。ことばを変えればモータリゼーションが我々の社会や経済に大きな変化をもたらし「私たち」や「街」「都市」我々に多く影響を与えた事は無視できない。「都市」と「都市」を結ぶ道路、国道、県道、市道、等など街は全て「接続」されてきた。
それは私達が「接続」の向こうに「理想的姿」「未来像」を画きその「理想」を信じ込むことに「長い歳月」「時」にエネルギーを注いできた事に似る。

技術の進化に未来の理想化、私達は理想化の向こうに見た「共通性」、それに「理想像」を重ねて来たとも、それは「理想像の共有」。
モータリゼーションがもたらした現象の最初の「共有観」と言える。
共有する価値観や時間に距離感を重ね合わせることで薄まり始める「もの」の「質量」に軽い「快楽の眩暈」を感じることになる「軽さの中にある快感」は車がもたらした現象と言えるかもしれない。

   
「接続」トラフィックラインは都市や街に向ける連続した「連結空間」になることから「拓いた空間」から「拡がる空間」を生み出したことになり「我々の内部」に繋がることになった。
都市に接続し始めたトラフィックライン、それはモータリゼーションの現象、車が人と共に現実を触れることになりトラフィックラインは拡がる人々は価値観の共通性に「メタルの皮膚」を着るこのモータリゼーションの影響力は「意味」「質」の異なる欲望が生み出される。
そして長く語られて来た共通の理想的価値観を崩す。
トラフィックラインを通し我々自身の内側から消えて行くチューブラビリンの神話、モータリゼーションの開始された時点、我々は自身の心の内側に「閉じた世界観」を見たとも言える、「トラフィックチューブ」の都市や街、接続から開始された未来観は今、理想的な「意味」「内容」は遥かに掛け離れて行く「現実」を私たちの街に観る。
拡がる都市空間、インフラの皮膚を纏ってまだ久しい、しかし今都市は人々の内側の欲望のチューブに都市のインフラの皮膚を重ねる我々の語り継いできた都市神話を脱ぎはじめる。
神話は姿を変えその姿を包む内部は中心を持たない。
瞬間に立ち現れ都市の街のそして奥深く向かう。
気が付くと移動する機能が物とつながり重なることで媒体が誕生することになる。
あらゆる身の回りが媒体になり動き出す。
「我が家まで」「我が家から」都市における空間の意味は「移動」する意味「閉じた系」の意味、と繋がって内面に向かう。
私達はそこにいることになり変化を目撃する。
地上でリフレクションしている多くの物や記号は我々と距離を持つ、しかしアメーバとなったチューブの空間に立ち上がるものは「至近距離」に、「網膜」「皮膚」にダイレクトに飛び込む。
リフレクションする街や都市空間の多くの構築されている物の神話は消えたことになる。
それは風景、流れるメタルの皮膚は窓の出来事、都市の騒音と同化した時間に変わる。
「近づく」「気付く」、その時街のあらゆるものは実態が流れだす、なぜか媒体は街の風景に溶け我々は瞳を閉じる接続するチューブが空間性を変え拓く。