2009年2月3日火曜日

上智大学ー哲学のまなざし「人間はいかに語られてきたか、そしていかに語られうるのか」、この副題について

例えば、私が何かについて考える。また、私が何かについて悩む。このことは、私の中においては、初めての出来事として、それを受け入れることになる。その、私が迎え入れる出来事は、時間を越えた中で、私が予測もできなかった事として、その時の私は、その出来事と向かい合っていることになる。その中で、その出来事をどのように受け入れそれをどの様に解釈し、私自身の中に納得させ受け入れていくのか、私は、初めて考えていることを経験する。そして、それが初めてだということを疑うことすら私はなかった。過去において、記憶の中に私が経験してきた事は、誰にもわからない出来事としての私の内に秘めた事の様に思い、消えてしまった出来事の記憶の1ページとしてしか考えられなかった。
しかし、私が誰もわからないと思っている、悩みや考える何かについては、私の出来事ではなく、はるか以前にすでに誰かがその出来事に触れていた事になぜか気づくことになった。
私の中では、何かについて考える事は、もうすでに言葉でその何かを眺めている事になる。視覚的な何かについての問題は、目の前の出来事とは別のものとなり、その出来事は、言葉という共通の音や、記号へと再構築されている。そのように初めての経験は言葉に配置換えされ、自身の感覚へと促され、その出来事を受け入れたり拒絶したり、また直接ではないが間接的にその出来事を目撃したり。ここで言えることは、心の記憶として誰に知られることもない私の出来事は、私を悩ませたり落ち込ませたり、または高揚させたり、この事も答えははるか以前に誰かに触れられていた事になる。
これまで目を通してきた多くの書物の中に語られている向こうにある言葉に触れること、それは書物や人物、時間や時代を越えて、肉声ではないが言語として、また、その著者に出会った時には言葉として、その中から多くの人々は、「出会う」そして「著者に触れる」という想像を出来事として、経験として受け入れた中から、自身の時間に持ち込み、再度翻訳している自分を見ていることになる。
私が受け入れなければならない出来事の現実は、長い歴史の中で触れ、想像されてきた出来事と見ることができる。そしてそのことは、これからも誰かが同じように経験し、その出来事に出会うことになる。
哲学という世界は、私にはまだまだ未知なる分野だが、経験という枠から見た時に、時間を越えて共有する思考、そしてそこから生まれてくる出来事は、「生きている」という前提の下に、言葉という一つの思考、そして言語という道具を通した「生」の追求に他ならない、「生」から見た時間という世界を想像させてくれる。
私達はそして人々は共同体としてつながっている強さを認識させてくれることに他ならないと思うのだが。
                                        往 蔵  稲 史 仁

視覚化する透き通る身体

「それ」は自然発生的にして意図的に必要以上にシンプル、過剰なまでに透き通る、「それ」は想像されることを想定して造り手の心表情を覗き観るそして造り手の予想に語り寄る。
「それ」は観る見られる意識をなぜか知覚する。我々の感情に心の襞に接近そして触れる。身体にこだわり「それ」は我々一人々になぜか他者の存在を意識させ我々の周りを廻る。加速度的に視覚化する世界、人々の大半は結果に接近する。
予想されたアベレージ、共通するバリエーション、その内部に留まり予測に応え着地する。
人々の前に出現する「それ」。
他者を自身の身体に接続する、自身は見つめる他者の目に移行し観る中、深く自分を客観視する。
「枠、フレーム」透き通る身体、安らぐ瞬間、視覚化する身体は表層の膚に意味を見出だす。私はいつか見つめる他者を私の傍に置く、そして繋ぐ、結ぶ、縛る、接続を。
世界は構築に向け視覚を味覚化する。
不透明な身体を脱ぎ棄て視覚化する身体の変容をそこで観る。
時代を発見する私、時代を開始する私、観ることは他者を覗くこと、我々の身体の視覚化は聴覚、嗅覚に及ぶ。視覚化する味覚、味覚化する視覚。
「それ」は観てから「感じる」「予想」と「予測」の中に組込まれ「観られる」ことを意識する。「それ」を眺める。受け入れるものは「枠、フレーム」からはみ出すことはない。
演じる私、私が見つめる向こう側にいる。「それ」が我々を試す、そして我々に語りかける。
「もの」と新な関係を想像する「それ」。
見つめる私、演じ出す私、見つめる他者の向こう側に演じ観る私が自身を見ていることになる。
出来事、我々は距離に関係なく同時に目撃する事になる。記憶の枠に、見えない世界観、ここでも「枠、フレーム」に縛られるが全て同時に目撃体感する。出来事の目撃と体感、潜む新な開かれた思考ゲーム、出来事はライブゲーム透明な視覚ゲーム、オープンな思考がライブとなる。
 閉じない我々、他者を見つめる私、見つめられる私がいる接続する身体に眠れない我々の知覚、全て公開ライブ、透明さを帯び、我々を取り囲む環境が我々から切り離される、現象のバーチャルが浮上する。
閉じない、眠らない、全てが露呈される誰一人それについて語らない。目の前に出現しているカタチが醸し出す時代の空気感「それ」は閉じることが出来ない我々の姿。
スイッチを、切断できない、落とせない、我々を目撃する。