「それ」は自然発生的にして意図的に必要以上にシンプル、過剰なまでに透き通る、「それ」は想像されることを想定して造り手の心表情を覗き観るそして造り手の予想に語り寄る。
「それ」は観る見られる意識をなぜか知覚する。我々の感情に心の襞に接近そして触れる。身体にこだわり「それ」は我々一人々になぜか他者の存在を意識させ我々の周りを廻る。加速度的に視覚化する世界、人々の大半は結果に接近する。
予想されたアベレージ、共通するバリエーション、その内部に留まり予測に応え着地する。
人々の前に出現する「それ」。
他者を自身の身体に接続する、自身は見つめる他者の目に移行し観る中、深く自分を客観視する。
「枠、フレーム」透き通る身体、安らぐ瞬間、視覚化する身体は表層の膚に意味を見出だす。私はいつか見つめる他者を私の傍に置く、そして繋ぐ、結ぶ、縛る、接続を。
世界は構築に向け視覚を味覚化する。
不透明な身体を脱ぎ棄て視覚化する身体の変容をそこで観る。
時代を発見する私、時代を開始する私、観ることは他者を覗くこと、我々の身体の視覚化は聴覚、嗅覚に及ぶ。視覚化する味覚、味覚化する視覚。
「それ」は観てから「感じる」「予想」と「予測」の中に組込まれ「観られる」ことを意識する。「それ」を眺める。受け入れるものは「枠、フレーム」からはみ出すことはない。
演じる私、私が見つめる向こう側にいる。「それ」が我々を試す、そして我々に語りかける。
「もの」と新な関係を想像する「それ」。
見つめる私、演じ出す私、見つめる他者の向こう側に演じ観る私が自身を見ていることになる。
出来事、我々は距離に関係なく同時に目撃する事になる。記憶の枠に、見えない世界観、ここでも「枠、フレーム」に縛られるが全て同時に目撃体感する。出来事の目撃と体感、潜む新な開かれた思考ゲーム、出来事はライブゲーム透明な視覚ゲーム、オープンな思考がライブとなる。
閉じない我々、他者を見つめる私、見つめられる私がいる接続する身体に眠れない我々の知覚、全て公開ライブ、透明さを帯び、我々を取り囲む環境が我々から切り離される、現象のバーチャルが浮上する。
閉じない、眠らない、全てが露呈される誰一人それについて語らない。目の前に出現しているカタチが醸し出す時代の空気感「それ」は閉じることが出来ない我々の姿。
スイッチを、切断できない、落とせない、我々を目撃する。



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